ジャルディニエ・キリクイの庭しごと

神奈川で庭づくり・庭の手入れをしているキリクイのブログです。

庭師とは何者か

成人しても幼名を名乗る人々

江戸時代までは、幼名をつける習慣がありました。成人するまでは、幼名を名乗ります。「~丸」というのが幼名の典型で、たとえば源義経は幼名を牛若丸といいました。

中世の時代、牛車を扱う牛飼いは大人であるにもかかわらず「~丸」という名前(童名)を用いていました。これは、子どもというものが人間社会を超えた存在とつながりをもっていると考えられていたことと関係があります。牛のような大型動物を扱う牛飼いには、普通の人間が持ち得ない特異な能力があり、それは子どもと同じように人の世界の外側とつながっていることによってもたらされたものだからこそ、童名を名乗ったのでしょう。

鷹や犬、刀、楽器、船などにも、「~丸」という名前がつけられることがあります。子どものように大切にしたからだという見方もありますが、そうではなくて、これらもやはり外側の世界とのつながりを持ち、人知を超える力を発揮してくれるものであったからに違いありません。狩場での鷹や犬、戦場での刀、大海原での船、いずれも人の力だけでは成し得ないことを実現させてくれるし、音楽を奏でる楽器は外側の世界を垣間見せてくれます。

 

庭師の立ち位置

庭師は、石を据え、水を流し、木を植えます。この能力も牛飼い同様のものとされていたのではないでしょうか。中世の庭づくりにかかわる者が被差別民であったことも、この考えを裏付けるように思います。かつては人間社会の外側の力(見方を変えれば、宇宙の中心あるいは森羅万象の源)に触れている者として畏怖や尊敬を集めた者が、外側であるがゆえに差別の対象になっていった歴史があるからです。

そもそも庭とは、人間の所有する場所でもなく、自然でもない、特殊な場所を指す言葉でした。そこは、神仏の領域です。庭園というのは庭という言葉が抱える意味のうちの一つですが、その空間の特殊性は同じです。

庭師は、人間社会の外の力を借りて、庭園という特殊性を持った空間を作り出す職能の人々です。童名を名乗っていなくても、人間社会と外の世界をつなぐ役割を担ってきました。

庭師の作庭は、一般に考えられているガーデンデザインとはずいぶん違います。ガーデンデザインにおいてはデザイナーという個人に庭が還元されますが、庭師は庭の起点を自分の外側に求めます。

庭木の剪定も現代ではすっかりサービス業となり、明瞭・わかり易さが主要なセールスポイントになりましたが、庭師の仕事はもともと良くわからないものを含んでいるものなのです。

「俺は庭師だ」とふんぞり返っているのは論外ですけど、サービス業という範疇に収まりきらないものを切り捨てずに活かしていく道を探っていきたいと思います。

 

※参考文献 網野善彦『中世的世界とは何だろうか』(朝日選書)

 

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