ジャルディニエ・キリクイの庭しごと

神奈川で庭づくり・庭の手入れをしているキリクイのブログです。

市中の聖域

庭は流れる

庭というものは、常に変化しています。草木は成長し、花を咲かせ、葉を落とします。光や風が同じ状態に留まっていることはもちろんあり得ません。それでも、庭は庭で、まったく別のものになってしまうことはありません。

鴨長明はこれを「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と表現しました。川は川として昨日も今日も存在するけれど、そこに流れる水は同じ水ではないのです。

生物学者の福岡伸一は、生命を「流れ」としてとらえ、次のように説明しています。

「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間には環境へと解き放たれていく。
 つまり環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである」(福岡伸一動的平衡』)

留まることなく常に動きながら、ある一定の平衡状態を保っているシステム、それが生命です。

庭は、川のようであり、一個の生命のようでもあります。

都市の中の聖域

都市社会に暮らしていると、こういうことを考える機会が圧倒的に少なくなります。
そもそも都市というものは、人間がすべてを把握し管理している(はずの)空間です。「生命」なんてよくわからないものの探求は研究室に押し込めておけばいい。川は川だし、私は私、昨日も今日も明日もそれは変わらないものだという前提で、都市の時間は過ぎていきます。「人間とは流れである。今日の私は昨日の私とは違う」なんて言っている人は、ちょっと面倒だし、置いていかれるほかはないでしょう。

こうした中で、庭は都市に残された例外的な空間です。マニュアルに則った作業で庭は「管理」できるという都市型の発想に浸食されつつあるとはいえ、植物を中心に据えた空間である庭は、現在も都市の論理の外にあります。

もし都市に暮らす人間が、生き物として、生き物らしく生きようと思うなら、庭が助けになってくれるはずです。庭は生命の本質を垣間見せてくれます。

庭師の使命は、この聖域を守ることなのかもしれません。

かけがえのない一瞬

さて、もし可能なら、少し庭を眺めてみましょう。
庭は常に流れゆきます。まさにこの一瞬一瞬がかけがえのない瞬間です。この光、この緑の色は二度と同じものを見ることができません。頬に感じる風、漂う花の香、鳥のさえずり、虫の声、すべてが刹那の出来事であって、留まることなく移ろいゆきます。

そして、庭を見ている僕も、あなたも、横にいる家族や友人も、足元に寝そべっている犬も猫もまた、みんな同じ「流れ」です。
いくつもの流れが、どういう因果か、ここに出会っている、そうした縁の不思議さを感じませんか?